女囚は身分を問わず、伝馬町牢屋敷・西の口揚屋の女牢に入れられた。収容しきれない場合は東の口揚屋(遠島部屋)を、さらには百姓牢の揚屋を使用した。
間口二間半×奥行三間=15畳。半間の雪隠が付く。
元禄12年(1699)末には、7人(日本刑罰史年表)。
多いときで30人(牢獄秘録)。
天保3年、売女刈込で38人が入牢(佐原喜三郎大阪屋花鳥鵆沖白浪)。それ以外でも娼婦の一斉摘発の際には、大量の入牢者があった模様。
衣服は入牢時のもの、そして親族からの差入でまかなった。ただし上等な着物は、しばしば牢内役人に取り上げられてしまったという。
無宿者や、差入が無い場合には、申立によって囚衣が与えられた。夏は麻の単衣、冬は綿入り、いずれも浅黄無地であった。
朝五ッ時(午前8時)と、夕七ッ半(午後5時)の二回。
玄米二合五勺。みそ汁と、糠漬けの大根。
水遣所で桶に湯を張り、数人づつ入った。
頻度は20日に一度ほどであったが、後に冬期は一月に3回、春秋は4回、夏期は6回に改善された。
妊娠中の女性が入牢した際は、牢内で出産させ、付人が世話をする。乳飲み子のある女囚は、子供も一緒に入牢させた。
妊娠中および乳飲み子がある時は、拷問がおこなわれなかった
永牢の女囚が妊娠した例もあった。下っ端役人に、張番所で犯されたのだろう。
女牢には付人と呼ばれる非人の女房が付けられ、一ヶ月交替にて女囚の世話と監視をおこなった。
女牢では牢内役人が認められていないが、実際には牢名主がいた。