木馬責めの歴史  


2018/02/19 掲載
2018/03/21 改稿


中世

 木馬責めに関する最も古い記録は、鎌倉時代の『十訓抄』である。しかしそれは、木馬に乗せて責めた という記述にとどまり、その形状も責め方も不明である。また、同じ鎌倉時代の随筆『徒然草』の解説本『諸抄大成』にも、拷問具としての木馬の存在が示唆されている。
 さらにさかのぼって平安時代、『参考源平盛衰記』には、拷問の後で拷木より下ろして云々という記述があるので、これが木馬であった可能性も無いわけではない。ただし当日の拷問は、杖で打つものが主流であったので、拷木というのはムチ打ち台のようなものと考えるのが妥当であろう。(参考文献『拷問史』(坂ノ上言夫))

室町時代~

 藤澤衛彦は『刑事博物館図録・研究篇』にて、木馬責めについて記している。
 ――日本に於ては、主として武家時代に至って最も行われたものであるが、それとても、一定の法則に拠ったものではなく、臨機勝手に発案実行されたもので、北条、足利、織田、豊臣と相次ぎ相承けるに及び、各自自由の法制を採用し、上代律令の弛緩頽廃の間に一家の制定を行わしめた状態を以て、徳川幕府に引き継いだ――
 このように、木馬責めに類する責め問いは、武家時代以降継続的におこなわれていたことは確実である。
 江戸時代も、享保年間に公事方御定書によって拷問の手順が定められるまでは、牢屋敷・拷問蔵でおこなわれていたと見るべきであろう。後述するが、火盗改役宅で木馬責めがおこなわれていた事実は、その頃の名残と思われる。

 木馬の形状や責め方については、種々様々であったに違いない。武家屋敷で馬具を保管するための架台を流用したものならば、跨がってもそれほど苦痛を感じないだろう。背を鋭く尖らせた木馬を用いて、性器に食い込むように「改良」されたのは一体いつの頃だったのか。

江戸時代

 江戸時代になると、具体的な記録が増えてくる。
 享保12年(1727)に発表された随筆『落穂集追加・第3巻19』に木馬責めの記述がある。要約すると、
 ――70年以上前には、秋になると名主の家に水牢や木馬を設置し、年貢を滞納する狡い農民を責め立てたものだが、最近は百姓も真面目になったのかそういう話は聞かない――
 である。未進責めともいわれるこの制度は室町時代からあったが、あまりに残酷だったので、廃止した領主もいたという。
 元禄から享保にかけての見聞録『月堂見聞集10』では、享保3年(1718)、抜け荷の罪を犯した者を、大阪で木馬責めに掛けた記録がある。
 公事方御定書制定以降、木馬責めは幕府公式の拷問ではなくなったが、江戸以外では公的な記録にも残されている。『雑色要禄』および『京都御役所向大概覚書』によると、宝永6年(1709)につくられた京都六角の獄舎には、本牢・切支丹牢・女牢(12畳)などの他に、拷問所、そして木馬が2ヶ所あったと記されている。ただし、実際に使われていたかどうかは不明。

火付盗賊改方

 木馬責めは、火付盗賊改役宅でも行なわれたという記述は、多くの書物で読むことができる。ただし、役宅は各々の屋敷を用いていたので定まっておらず、誰のどの屋敷で木馬が使われたのか、それがわかる資料は残念ながら見たことがない。もしかしたら、代々受け継がれる木馬があったのかもしれない。

切支丹の拷問

 切支丹信徒を改宗させるための拷問に、木馬が使われたこともよく知られている。日本人信徒や外国人宣教師が、木馬責めに掛けられた記録は、男女問わず多く残されている。
 寛永16年(1639)江戸では、井上政重によって3人の神父が木馬責めの拷問に掛けられている。切支丹屋敷ができる(1646)前のことであるから、場所は伝馬町牢屋敷であったと推測される。
 ――政重は神父たちに棄教するよう10日間も説得したが無駄だった。それが駄目なら拷問である。最初は木馬拷問であった。馬の背中に似た木馬の上にまたがり、その両足首に重い石をつり下げて苦しめる。肉が引き千切れ、骨も砕けるばかりの苦痛である。しかし、3人はこの拷問にも屈しなかった――

体験談

 実際に木馬責めを受けた本人が語った、貴重な体験談もある。
 夢野久作が著した『近世快人伝』には、明治時代に木馬責めを受けた奈良原到の回顧録が書かれている。要約すると、「福岡県庁裏の獄舎で、3人並んで木馬に跨がらされ、腰に結んだ荒縄に漬物石を吊るされ、石の数を増やされ、腰から下は血まみれになった」とのことである。その3人は、どれだけの重石を吊り下げられるか、我慢比べの競争になったという。その時、共に木馬責めに掛けられた進藤喜平太は「女のように静かな、紅顔の美少年」だったそうなので、色々想像するのも楽しかろう。
 また、長州藩士の子三浦梧楼が、佐幕派に捕らわれて木馬責めを受けたという話を聞いたことがある。年少ゆえに手加減されて、女性に用いられる木馬で責められたが、毎日木馬に乗せられて下半身血だらけになっても白状しなかったという。現在出典元を調査中。
 この二つは木馬責め体験者の話であるが、股間から出血して血まみれになるほど苛烈な拷問であったことがわかる。もっともこの類いの話は、かなり誇張されている可能性もあるだろう。

ヨーロッパ 魔女裁判

 西洋における木馬責めで用いられたのは、wooden horse、spanish donkey、cavaletto、squarciapalle などと呼ばれる器具であった。
 こちらも具体的な記録を探してみよう。

 1391年パリで、魔女の疑いを掛けられたジャンヌ・ド・ブリーグ(34歳)の裁判記録がある。火刑の判決を受けた彼女が上告したところ、法廷は再び彼女の拘留と訊問を続行させた。以下『尼僧と悪魔』(吉田八岑)より引用。
 ――ジャンヌは衣服を剥ぎ取られると、木馬責めの拷問台に乗せられたが、あまりの怖しさに、知っていることは何んでも喋るから降してくれと叫びだしたので、慣例に従い縄を解かれると、自ら自白供述するに至ったのである――

ドイツ バンベルク裁判

 またドイツの例を、『拷問と処刑の西洋史』(浜本隆志)より引用する。
 ――バンベルクの裁判調書では、1627年6月8日、被告アンゲリカ・デュースラインがいわゆる「ボック(木馬)」という拷問具に、午前11時から午後3時まで4時間乗せられていたという記録がある。ふつうこれは、15分も乗せると気を失い下ろされる代物であった。――
 15分で気絶するという苛烈な拷問を4時間も耐えた、アンゲリカという女性に興味が沸こうというものである。綴りは Angelika Duisrhein だと思うのだが、ネットの検索ではヒットしない。
 この通称「ボック」、「ロバ」という拷問具は、典型的な牧畜民族の発明品であるが、乗馬する姿勢で乗せられる木馬型で、鞍の部分が鋭角になっているもの、傾斜を付けたもの、足に重りを付ける方法など、多くのヴァリエーションがあった。(中略)比較的単純な構造で効果があったので、異端審問、魔女裁判の際に多用された――
 ちなみに当時の「カロリーナ法」(1532)では拷問の乱用が禁じられ、3回拷問を受けても自白しなかった者は釈放される決まりであった。しかし、現場においてそのルールが守られることはなかっただろう。
 同じくバンベルクの、別の裁判記録では、木馬責めの具体的な方法が記されている。
 ――木馬型の拷問具に披拷者を乗せ、背中を猫背のように彎曲させて縛りつけ、さらに房鞭で打つ。80回も打ったら一旦中止し、傷口に軟膏を塗り込む。白状しなければ、2日~4日後に再び同じ責めを加える。今度は樺の木の枝で打つ。回数は300回以下と定められていたが、大抵は20~30で白状したという――

 その他、デンマークでは1668年に、Christen Simmensenという仕立屋が、新年の祝砲を撃った咎で捕らえられ、木馬に90分以上乗せられる罰を受けたという記録がある。

軍隊の懲罰

 17世紀以降、ヨーロッパ各国の軍隊で木馬による懲罰がおこなわれた記録がある。片足20キロの重りを吊され、数時間、3日連続で受けた例もあり、稀に死亡することもあったという。本来、傷跡が残る鞭打ちに代わる懲罰として木馬が使用されるようになったともいうが、結局のところ兵士の士気が落ちるので後に廃止された。
 当時の図画をみると、2~3メートルの長さの木馬が使われ、同時に複数人を乗せることもあったようである。
 フランス軍の兵舎では、不貞をはたらいた女性に対しても使用された。
 アメリカでは、植民地時代から南北戦争の頃に riding the rail と呼ばれる軍隊の刑罰があった。削り立てられた木の柵に跨がらせるものだが、これも木馬責めの一種といえるだろう。この責めは数時間続けられることもあり、降ろされた後は歩くこともできなかったという。


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