磔刑について  


2018/02/23 掲載

まず……

 江戸時代の女囚の拷問・刑罰を扱ったサイトを開設していると、たまにご要望を頂くことがある。
 ――何故、磔を扱わないのか?――
 私の答えは単純で、「死んじゃうようなストーリーは嫌いだから」。「殺されてしまうキャラクターには感情移入できない」といったほうが正確かもしれない。だから、磔に限らず、生命刑には興味が無い。
 ならば、死なない磔はOKなのか?と問われれば、はいと答える。
 ただし私は、拘束され、晒されるだけでは不満足な人間だ。苦痛が伴わないとダメなのだ。磔も「嫌いではないよ?」という心持ちで作ったページなので、その点はご容赦頂きたい。


江戸時代の磔刑

 江戸時代の庶民の死刑には、6種類あった。
 刑の軽い順に、下手人・死罪・獄門・磔・火炙り・鋸引きである。
 下手人と死罪は、どちらも伝馬町牢屋敷内の死刑場(通称土壇場)で斬首にされる刑である。獄門の場合はそれに加えて、切り落とされた頭部を晒されることになる。火炙りは、放火犯に対する刑である。鋸引きは磔の付加刑だが、江戸時代には形骸化していた。

 磔刑は、江戸では小塚原と鈴ヶ森でおこなわれた。ただし関所破りなどは、犯行現地でおこなわれることもあった。
 刑場に到着すると、囚人を馬から下ろし、磔柱に仰向けに寝かせ、両手両足を縛り付けた。次いで、囚衣の脇を切り裂き、胸側でまとめる。さらに胴縄とたすき縄を掛けた上で、磔柱を立てた。
 磔柱は男性は「キ」型で股間を支える突起があった。女性は足首を縛るので「十」型で、足を置く踏み台があった。
 磔柱には栂の木を用い、太さは5寸(15cm)角、長さ2間(3.6m)で、下部の3尺(90cm)を土中に埋めた。手を縛る横木は、太さ2寸×3寸、長さ6尺(1.8m)。女囚の場合は、足元に直径1尺(30cm)の踏み台があった。地面から足までの高さは、5尺(1.5m)ほどであった。


引き廻し

 獄門・磔・火炙り・鋸引きは、基本的に「引き廻し」が付加された。こちらを趣味とされる方も多いだろう。ただし残念なことに、女囚の引き廻しは寛保2年(1742)に廃止されている。吉宗公も余計なことをしてくれたものである。もっとも、牢屋敷から刑場までは裸馬に乗せられて移動するので、時代劇の描写は間違いではない。


理想的な磔刑

 無実の罪で磔刑を言い渡され、裸馬に乗せられ市中を引き廻され、磔柱に縛り付けられ、高く晒されたらどんな気分になるだろう。
 本物の悪党の中には、処刑前でも気丈に振る舞う者がいたという。しかし、もし自分が無実の罪で磔にされる若い娘だとしたら、磔台の上で何を思うだろう。目の前で槍を構えられて、気絶する囚人も多かったという。

 ここで、大江戸捜査網 第154話「血染の蛇の目傘」を見てみよう。


 殺しの疑いを掛けられて、拷問されるお夏。もっともこれは大番屋での取り調べであり、拷問のうちには入らない。
 お夏は、命の恩人を庇って、嘘の自白をしてしまう。
 ……もう少し頑張って、牢屋敷内で本当の拷問に掛けられて欲しかったところ。


 牢内で仕置きの日を待つ。


 裸馬に跨がらされ……


 引き廻されて……


 高く晒され……


 目の前で交差した槍を構えられ……


 寸前のところで早馬が駆け込み、処刑中止。
 事件の真相があらわにされる。


 ハッピーエンド、万歳。


ダメな磔刑

「必殺」シリーズは、善人が殺されてその復讐がなされるというテンプレートなので、磔シーンでは無実の者が本当に処刑されてしまう。助けは来ない。






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