幻影の女囚   


 東京都中央区日本橋小伝馬町。
 ここは、江戸時代に牢獄があった場所として知られている。
 伝馬町牢屋敷――その跡地は、十思スクエアという公共施設、公園、それから大安楽寺に姿を変えている。
 私は、十思公園の片隅に設けられた石碑の前に立っていた。ここは、幕末の長州藩士、吉田松陰の終焉の地である。安政の大獄で投獄された吉田松陰は、一八五九年にここで処刑されている。実際に斬首された『土壇場』は、今の大安楽寺のあたりだという。ちなみにお墓は、世田谷の松陰神社にある。

 私の名前は七瀬真季。史跡探訪が趣味の高校生。俗にいう『歴女』。刀と弓も好き。ちょっとオタク入っている。
 今日はここ、伝馬町牢屋敷跡に来ている。日曜日だけど昼まで学校に居たので、制服のままだった。
 こぢんまりした展示館を見た後、近辺を散策して、今は十思公園のベンチに腰掛けている。
 一眼のカメラで撮った写真を見返しつつ、地図を広げてメモなどをとったりしていた。スマートホンを開いて、今日はこんな所に来てます、みたいな書き込みをSNSに上げていると……
「こんにちは。ちょっといいですか」
 唐突に話しかけられて、少し驚いた。
「あ、はい、こんにちは」
 顔を上げると、女性の姿があった。少し年上、大学生くらいの感じだった。知らない人。宗教の勧誘?ではなさそう。
「もしかして、牢屋敷跡の巡見?」
 ああなるほど。制服を着てカメラを手にした女子高生がこんな所にいれば、そう思われるものなのかもしれない。
「はい」
「やっぱり。じゃ展示館はもう見た?」
「あ、はい」
 先ほど見学してきた所だ。いくつかのパネルと、大きな牢屋敷の模型が置かれていた。
「よければ、少し案内してあげましょうか」
「お詳しいんですか?」
「近くに住んでいるの」
 地方の史跡を回っていると、こういうことはよくある。地元のボランティアみたいな人に案内してもらうことは珍しくない。もっとも、鬱陶しいおじさんに珍説を披露されることもあるのだけれど。
 特に危なそうな人には見えなかったので、私はガイドをお願いした。
 彼女はまず、牢の配置から教えてくれた。
「庶民を入れた大牢、人別帳に載っていない者を入れた無宿牢は、東西に分かれていて、あの辺からあの辺まで、五十メートルくらいの長い建物でした。結構大きいですよね。女囚が入る女牢は、真ん中辺、あの公園の入口のあたりにありました」
 細かな場所までわかることに、少し感心した。
「丁度公園の真ん中辺りにあったのが、武士を入れた揚座敷。それから、あのトイレのほうにあったのは、百姓牢」
 女性の説明はよどみなく続いた。
「あの辺りは、切腹場」
 切腹人と役人たちの配置や、切腹の作法についてまで語ってくれた。
 公園を出て、大安楽寺へ。このお寺は、かつての死罪場の上に建てられたことは知っている。斬首の方法について語ってくれる女性。やたらと詳しい。死体を用いた、刀の試し切りの話なども聞かされて、少し気分が悪くなる。
 さらに私たちは、牢屋敷の表門のほうへ向かって歩いてゆく。
「この道の左側は、牢屋奉行石出帯刀の屋敷と、牢役人の住む長屋がありました」
 不意に、女性が立ち止まった
「丁度このあたりには、穿鑿所がありました。奉行所から吟味方与力がやってきて、被疑者を取り調べるための場所です。そして、容疑を認めない者に対しては、拷問がおこなわれることもありました」
「……」
 およそ三百年前、まさにこの場所でおこなわれた吟味と拷問に想いを馳せる。御白州の様子が脳裏に浮かんだ。
「当時は、自白がとても重視されていました。いくら証拠が揃っていても、自供を取れなければ裁きを下せません。逆に無実の人でも、過酷な拷問に耐えかねて罪を認めさせられたことも多かったでしょうね」
 ドクンと心臓が高鳴った。
「江戸時代に刑死した人の数はよくわかっていないのですが、およそ二十万人という説もあります。そして、冤罪の確率は今よりも高く、多くの人が無実の罪で処刑されてしまったのです」
 女性の声が、エコーを掛けたように頭の中に響いた。
 目が回り、視界が真っ白に染まり、そして私は跳んでいた。

    *

「元数寄屋町加賀屋奉公人、真季。十八歳。そのほう、六月十日の夜、押し込みの手引きをいたし候、相違ないな」
 それはまるで、時代劇で見たような光景であった。
 私はムシロの上に正座させられていた。着ているのは、先刻までのセーラー服ではない。灰色っぽい、浴衣のような着物だ。そして、手鎖を掛けられている。
 一段高い座敷には、役人が四人。白洲には、下男と竹笞を持った二人の役人が居た。
「真季、正直に申さぬか」
「いいえ、わたくしは、その……」
 何? 夢?
 これは裁判の場だということは想像できる。でも、私は何? 今確かに、真季と呼ばれた。
「あの夜、加賀屋は使用人も含め、皆殺しにされた。だがお前は一人生き残り、逃走中に捕縛された。お前が手引きして黒手組を招き入れたのであろう?」
 加賀屋? 黒手組? 何?
「いいえ、わたくしではございません。全く、身に覚えのないことでございます」
 少し悩んだ末、時代劇のようなセリフを口に出してみる。事情が皆目わからない以上、黙っているのが得策とも思えたが、相手方の反応を見てみたかったのだ。夢ならば夢、ゲームならばゲームなりのルールがあるだろう。
「では、お前はなぜあの夜、屋敷から抜け出していたのだ? 申してみよ」
「それは……」
 いきなり言葉に詰まった。記憶に無いことは答えようがない。
 吟味方の役人は、さらに畳みかけてくる。
「何処へ行っていたのだ、何をしていたのだ、誰と会っていたのだ、申してみよ」
 私は沈黙せざるを得ない。
「賊の手引きをしたのではないと、そう抗弁するのであれば、包み隠さず申し述べよ」
 悪い流れであった。今、私がおかれている状況がまずいことは明白だ。
「多々証拠があるにも関わらず、否認するのであれば、そのほうを拷問に掛けねばならぬぞ。痛い思いをせぬうちに白状してみてはどうか」
 拷問という言葉に私は震え上がった。
「お待ちください。わたくしは、その、加賀屋などというものとは、関わりはございません」
「加賀屋奉公人、真季、十八歳。調書にはそのように書かれているが、これはそのほうが申したことではなかったのか」
「はい、わたくしは」
 ――この時代の人間ではない
 そう言おうとして、思わず唇が止まった。
 それを口にしたら何が起きるのか、予測できない。形容しがたい恐怖があった。
「どうした。何を言おうとしたのだ」
 私は唇を噛んで黙り込むしかなかった。
 どうすればいい? どうすればいい?
 ついに業を煮やした役人が、命を下した。
「やむを得ぬな。笞打ちにせい」

 私は手鎖を外され、囚衣の袖から腕を抜かれた。下着などつけてはいないので、上半身は裸だ。反射的に胸を抱えて隠そうとしたが、両腕を掴まれ、手首を後ろで縛られた。
 縄は胸にも回され、乳房の上と下に掛けられる。さらに、くくられた手首が肩の高さまで引き上げられた。
 痛いッ。
 縄は前後に分けられ、下男たちがそれを引っ張った。私は地面に押さえ込まれるように、身動きが取れなくなった。
「打て」
 与力が命じた。
 竹笞を手にした打役が背後に立ち、大きく振りかぶった。
 ちょっと待って! 私は恐怖に目を見開いた。
 バシッ!
 振り下ろされた笞が、私の左肩を打った。
「あああッ!」
 想像していたよりも、ずっと痛かった。
 これまでの人生で、経験したことがないような痛み。
 荒く息をつく。呼吸を落ち着かせる間もなく、二打目が来た。
 ビシッ!
 今度は右肩。再び悲鳴をあげる。涙が滲んできた。
 二人の打役は交互に笞を振るった。左を打たれ、右を打たれる。
 同じ場所を繰り返し笞打たれる痛みに、私は泣き叫び続けた。
「やめて! やめてぇ!」
 二十も打たれた時、私は大声で許しを請うていた。
 笞が止まった。
 私は自白するつもりなどなかった。しかし激痛のあまり、意図しない言葉を叫んでしまったのだ。
 これはもしかして、夢ではない?
 では何? 江戸時代にタイムスリップ?
 だとしたら、ここで白状してしまったら
 ――処刑
「真季、手引きをしたのはおまえだな。相違ないな?」
「いいえ、わたくしではございません! そもそもわたくしは……」
「たわけ者が、続けろッ」
 再び笞が襲いかかって来た。左を打たれ、右を打たれる。
 やがて、両肩の皮膚は破れ、血が滲んだ。
 泣き叫び続けた私の喉は涸れ、意識も朦朧としてくる。
 痛い! 止めて! 助けて!
 単純な感情が、頭の中をぐるぐる巡る。
 ここで折れたら、わけのわからないまま殺される。そんな理不尽は嫌だ。今はとにかく耐え抜くんだ。その一念に、私はしがみついた。
 百と五十も打ち敲かれ、意識が遠くなった。

    *

 その日から、私の牢暮らしが始まった。
 江戸の牢屋といえば、牢名主を頂点とした厳しいしきたりがあり、大勢の囚人がすし詰めにされている印象があったが、そんなことはなかった。時期によって状況は異なるだろうし、男女の差もあるだろう。
 女牢の広さは十六畳ほど。入牢している女囚は、私の他に三人だけであった。
 女囚たちと恐る恐る交わした会話により、今の将軍様は第十代の徳川家治公であることを知った。老中は田沼意次だという。
 日がな一日、考える時間だけはたっぷりあった。
 この状況を夢として片付けるのは、無理があるような気がしている。
 夢の中での時間感覚は、大抵ぐしゃぐしゃなものだが、いま置かれている状況はやけに時系列がはっきりしている。そして長すぎる。幾夜過ごしても、目が覚めればそこは牢の中であった。
 ではタイムスリップ?
 それも疑わしい。
 よくあるパターンは、現代の服や荷物を持ったまま、異世界なり過去なりに飛ばされて、現地住人と邂逅するというものだ。だが私の場合は、その過程が端折られて、いきなり吟味の場である。連続性が無い。
 この場合不可解なのは、加賀屋奉公人の真季という存在である。本当にその人が居たのだとしたら、私との関係が分からない。私はその真季さんと取り違えられている?
 それとも、江戸の真季さんの身体に私の意識が憑依している? でも、水桶に映った私の顔は、確かに私のものだった。
 いずれにせよ、荒唐無稽な話だ。マンガや小説ではあるまいし。そう思っていた。

 二度目の吟味に呼び出されたのは、およそ七日後のことであった。
 女牢から出され、いくつかの門扉をくぐって引き立てられた先は、見覚えのある場所であった。牢屋敷内の穿鑿所、先だって私が吟味されたところである。
 私は手鎖を掛けられたまま、白洲に敷かれたムシロの上に正座させられた。縄尻は下男に握られている。
 しばらく待つうちに、座敷の奥から役人たちが現れた。場を取り仕切っているのは、おそらく奉行所からやって来た吟味方与力だろう。
 座敷に五人、白洲に四人。大勢に囲まれて、取り調べが始まった。
「元数寄屋町加賀屋奉公人、真季。そのほう、黒手組なる盗賊団の一味にして、去る六月の十日、強盗の手引きをした由、相違ないな」
「いいえ、わたくしの名は七瀬真季。加賀屋とは無縁にございます」
 役人たちが動揺するのがわかった。
「そのほう、氏があると申すのか。居所はどこだ、親の名は、申してみよ」
「父の名は、七瀬政利。住所は、渋谷区恵比寿一丁目……」
 口に出してから、江戸時代ではこの住所は通じないだろうなと思った。案の定、与力は激昂した。
「おぬしの言うことはまるで要領を得ぬ。我らを謀ろうというのか!」
「めっそうもございません。わたくしはそもそも」
 ――この時代の人間ではない
 それを言ったらどうなる? 狂人扱いされるか、それとも?
「真季、悪あがきも大概にせい。証拠は数多揃っておる。潔く罪を認めるのだ」
 どうしたらいいのだろう? わからない。わからない。
 思考が上滑りしていた。
 そして、何の策も思い浮かばぬまま時間切れとなり、与力は拷問の命を下した。
「始めよ」
 私は後手に縛られ、上体に縄を掛けられた。
 下男たちが拷問の支度を始める。軒を支えている柱の前に、ギザギザに波打った板が敷かれた。三角に尖った角材が、横向きに五本並んでいるものだ。
 この拷問は史料でもよく見る。石抱き責めだ。時代劇やマンガでも、この責めに掛けられて苦悶する囚人たちの姿を見たことがある。まさか、自分がその拷問を受けることになろうとは。
「そこへ座れ。座るんだ!」
 足の裏で踏んだだけで痛みが走る。私は膝を折られ、その板の上に正座させられた。
 囚衣の裾が開かれ、臑に直接角材が食い込んだ。
 痛いッ!
 思わず飛び退こうとしたが、身体を押さえ込まれた。そして、背後にある柱に縄で縛り付けられてしまった。
 なおも身をよじって逃れようとする私の前に、石の厚板が運ばれて来た。下男が二人がかりで持つそれが、太股の上に乗せられた。
「い、痛いッ!」
 角材の突起が、臑と足の甲に食い込む。
 私は石を揺さぶり落とそうとしたが、臑に尋常でない激痛を味わい、無謀な試みであることを思い知らされた。暴れたりせず、じっと耐えるしかない。
 たちまち息が上がり、汗がにじみ出てくる。
 背中で縛られた手首の縛めを解こうと試みたが、縄目は緩むはずもなかった。
 頭を左右に振ったり、手のひらを開いたり閉じたりして、痛みを紛らわそうとした。
「もう一枚乗せてやれ」
 無情な言葉が耳を打つ。
 下男たちが抱き石を抱えてやってくる。ゴトリという音がして、石が積み重ねられた。
「あああッ! 痛いッ、痛いぃッ!」
 二枚の抱き石の両端は縄でまとめられ、背後の柱につながれた。石が崩れ落ちないようにするためだろう。そしてこの処置は、拷問が長期戦になるであろうことを示唆するものであった。
 痛みだけに支配された時間が流れてゆく。
 この責め苦を、いつまで耐えればよいのか。与力が望む通りに罪を認める以外に、助かる道はないのか。
 囚衣の襟が汗を吸って、色濃く変わってゆく。
 あふれた涙が汗と混じり、顎先と鼻先からしたたり落ちて、重石の上に点々と染みができてゆく。
「真季、強盗の手引きをしたのはおまえだな。有り体に申せ」
 与力に何度も問い糾されたが、私は無言で耐えていた。
 時折、こらえきれぬ呻き声が唇から漏れ出た。
 痛い、痛い、痛い。
 永遠とも思える時間が過ぎてゆく。
 三十分、一時間にも感じたが、実際はもっと短かったのかもしれない。
 何度も、もう無理だと思った。体力も気力も絞り取られていた。
「石を揺すってやれ」
 与力の命じる声が聞こえた。下男たちが両脇に座り、抱き石に手を掛けた。
 ひッ。
 重石が揺さぶられた。右に左に、前に後ろに。
「ぎゃああああッ!」
 私は甲高い悲鳴を上げていた。
 臑がゴリゴリと嫌な音を立てるのが聞こえる。
 痛みが倍になったようにも感じた。とても耐えられるものではなかった。
 下男たちは、さらに力を込めて石を揺さぶった。
 足の骨が砕けると思った。
 声の限りに私は泣き叫んでいた。
「ああーッ! たすけてぇ! やめてぇ!」
 重石の揺れが止まった。
「真季、申してみよ!」
「わたくしは、黒手組など、存じません。そもそも、わたくしは、加賀屋の奉公人などでは、ありません……」
「まだ戯れ言を申すか。ではお前は、いったい何者なのだ」
 ――私は未来からやって来た
 そう申し開きをしようとしたが、唇が動かなかった。
「もう一枚抱かせろ!」
 二枚の抱き石を束ねている縄が解かれた。
 そして、三枚目の抱き石が運ばれてきて積み重ねられた。ゴトリという音とともに、信じられない痛みに襲われた。
「ぐぉぉぉぉぉッ!」
 喉の奥からほとばしる咆哮。
 再び縄で束ねられる抱き石。
 もう無理。
 腰から下は痺れて、もう自分の身体ではないようだった。だが、臑の激痛だけは止むことがない。
 口端からよだれがこぼれ落ちる。すすり上げる力など無いのだ。
 息が詰まる。苦しい。
 目が回る。頭が痛い。
 そのまま、どれほどの時間、私は耐えていたのだろう。
 お願い。早く、楽になりたい。
「真季! 申し上げろ!」
 何やら問い掛ける声が、朦朧とした意識に割り込んできた。
 いや……いや……
 曇った視界の隅で、下男たちがうごめいた。
 そして両側から抱き石に手を掛け、揺さぶられた。
 臑の骨が砕けるような感覚があった。
 死ぬ。
 ゴホッ
 口から血の泡が吹き出し、したたり落ちてゆく。
「う……ぐぉッ……くぅぅ」
 打役が重石の上に片足を乗せた。そして体重を掛けて、さらに激しく揺さぶられた。
「白状しろ、真季! お前は一味の仲間だな!」
 もうやめて、もう無理。
 ついに私は心折れた。
 ……ハイ
 声にはならなかった。
 私はかすかにうなずき、与力が拷問の中止を命じた。

 抱き石が太股の上から除けられてゆく。
 身体を柱に縛り付けていた縄が解かれ、私は責め台の上から降ろされた。
「ぐあああぁッ!」
 角材から臑が引き剥がされる時、たまげるほどの痛みが走った。さらに、痺れた下半身に血行が戻ってゆく感覚に、私は泣いた。
 後ろ手の拘束が解かれ、水を与えられた。
 与力が白状書をしたため、私に読み聞かせた。私は黙ってうなずき、口書に拇印を押した。

    *

 石抱きの拷問で痛めつけられた臑には、無惨な傷痕が刻まれていた。足の甲の感覚は何日も戻らず、まともに立つことさえできなかった。
 どうせ処刑される身である。牢内で放置された私は、うずくまって身体を抱え、泣いて過ごしていた。
 夢ならば覚めて欲しいという願いは叶わず、朝になればまた絶望と恐怖の一日が始まるのだった。そうやって処刑の沙汰を待つだけの日が続いた。
 ようやく歩けるほどに回復したある日、私は再び吟味のために呼び出された。

 私が引き立てられたのは、穿鑿所ではなく塗籠めの土蔵だった。小窓が一つあるだけで、中は薄暗い。
 白洲には、先だって散々痛めつけられた責め台や抱き石、水桶、三角に尖った背を持つ木馬などが置かれている。壁には竹笞が掛けられ、梁からは縄が垂れさがっていた。
 ここは拷問蔵なのだと悟った。
 しかし、私はすでに罪を認めた身である。この上何を問われるというのだろうか。
 私はムシロに正座させられて待った。臑の傷痕が痛んだ。
 ――ほどなくして、役人たちが蔵に入ってきて、座敷に座った。
「元数寄屋町加賀屋奉公人、真季。改め、盗賊団黒手組、真季」
 そう、盗賊団の仲間にされてしまっているのだ。私は。
「黒手組の一味はどこにいる。隠れ家の場所を申せ」
「えっ?」
 そんなことを聞かれても、答えられるはずがない。
「私は黒手組などではございません。拷問で無理矢理白状させられたのです。ですから、隠れ家など知るはずもございません」
「しらを切るつもりか! また痛い思いをしたいのか!」
 役人は竹笞の先端で、積み上げられた抱き石をコンコンとつついた。私は小さく悲鳴を上げて、哀願した。
「おゆるしください。もう痛いのは嫌です。知っていることは何でも言います。でも、知らないことは答えようがありません……」
「では、思い出してもらうまでだ」
 下男たちが動き始めた。
 両腕を掴まれて、背中側でくくられた。縛った縄は胸にも回される。
 私は足を一度崩されて、あぐらを組まされる。両足首を縄でくくられ、二本に分けた縄尻が両肩を通して背中側に回される。そして、思いっきり引き絞られた。
「ぐうぅッ」
 足首と顎が、膝と肩がくっつくまで身体を曲げられ、縛り固められた。
 関節が痛い、内臓が苦しい、息をするのがつらい。
 この上、どんな責めを加えられるのかと怯えたが、私はそのまま放置された。
 先だって受けた石抱き責めに比べて、随分と楽な拷問のように感じた。苦しいが、悲鳴を上げるほどのものではない。これならば耐えられるかもしれないと思った。
 だが、時間が経つにつれて、私の考えは甘かったことを思い知らされる。
 無理に曲げられた身体の痛みと、圧迫されている内臓のつらさは徐々に増してきて、やがて耐えがたいものになった。
 苦痛を紛らわすために身じろぎすることができないのだ。かろうじて動かすことのできる手先と足先が、何かを求めるようにうごめいた。
 全身が熱を持ち、脂汗が吹き出し、みるみるうちに囚衣が濡れそぼってゆく。
 胸が圧迫されていて、まともに呼吸ができない。苦しい。
「ぅ、ぅ……」
 唇からよだれがこぼれてゆく。
 つらい、苦しい、キツい、身体をまっすぐに伸ばしたい。
 突如、バシッという音と共に肩に衝撃が走った。竹笞で打たれたのだ。
「真季! 吐け! 黒手組の居場所を言え!」
 髪の毛をつかまれて、耳元で怒鳴られる。
 知らない……知らない……
 私は弱々しく、首を横に振った。
 さらに、さらに時間が流れてゆく。
 お願い、縄を解いて、身体を自由にさせて。深く息をさせて。
 いくら苦しくても、もがくこともできなかった。
 キツい、本当にキツい。
 私は半ば意識を失い、恍惚となっていたようだった。
 役人がまた何か怒鳴っているようだが、頭の中で反響してよく聞こえなかった。
 身体を後ろ向きに転がされた。
 さらに囚衣をまくられて、下半身があらわにされる。恥ずかしさなど感じる余裕は、無い。
 尻に竹笞が飛んできた。
「ゥッ!」
 くぐもった声が口から漏れ出た。悲鳴をあげたくても、あげられないのだ。
 尻と太股を滅多打ちにされて、私は正気づかされた。
「仲間はどこだ! どこにいる!」
 視点が定まらず、眼球が泳いでいる。
 また意識がぼうっとしてきた。
 キツい、つらい。でも身体中が痺れて、どこか気持ちいい。
 私は、おかしくなってしまったのだろうか?
 また竹笞で打たれたが、もはや身体は反応を示さなくなっていた。
 いつの間にか拷問は中止され、気がつけば私は牢に戻されていた。

    *

 先の責めの後遺症には、幾日も苦しめられた。
 笞打ちや石抱きのような外傷は無いものの、厳しく縛り固められた身体の各部や、長時間圧迫されていた内臓の痛みがひどく残った。食事もまともに摂れない日が続いた。
 しかし数日の後、再び私は吟味のために拷問蔵に引き立てられた。
「黒手組の居場所を言え」
 問われているのは、ただそれだけだった。
 しかし私は、それに答えることができない。
 いくら拷問に掛けられても、自白して苦痛から逃れる術はないのだ。

 私は上半身を裸にされ、両手を背中でねじり上げられた。手首に紙と藁を巻き付けられ、その上から縄でくくられる。縄尻は胸と肩に回され、再度背中で縛られた。
 そして、頭上の梁から垂れさがった縄に繋がれて、身体を釣り上げられた。
 爪先が地面を離れ、縄が胸と腕に食い込んできた。
「ううッ」
 苦痛に身をよじると、身体がゆるりと揺れた。
 さらに両足首にも縄を掛けられ、まとめてくくられた。
 泣きわめくほど苦しいものではなかったが、時間が経つにつれて、徐々につらくなってくる。
 自分の体重が、手首、二の腕、そして胸に回された縄に掛かっているのだ。皮膚に食い込む痛みと、胸への圧迫感がきつかった。息をするのがつらい。
 じっとしていても、苦痛は増してゆくばかりである。
 自分の感覚では、三十分以上耐えていたと思う。
「あぁー、あぁー」
 ついに呻き声が漏れ出る。
 全身から脂汗が吹き出し、肌を流れ落ちていった。濡れた額に前髪が張り付く。汗と涙で視界がぼやける。
 下ろして……下ろして
「黒手組はどこだ」
「知らない……知らない」
 役人が顎をしゃくって何かを合図した。下男がうっそりと動き、私の背後に回ると、
「あぁぁぁッ!」
 尻を竹笞で打たれたのだった。
 囚衣の上からとはいえ、渾身の力を込められた笞の衝撃は半端なものではなかった。
 二度、三度と打たれ、身体が宙で揺れた。
「黒手組はどこに隠れている!」
 さらに容赦なく笞打たれ、私は悲鳴をあげて身をよじった。頭を振り乱すと、髪の先から汗が飛び散った。
「やめてぇ! 言うからやめてぇ!」
 私はとっさに叫んでいた。笞が止む。
「真季、申してみよ」
「私は、知りません、本当に、知らないのです、だから、ゆるして……」
「嘘をつくな! しかと思い出せ!」
 再び、役人たちと私の我慢比べが始まった。
 もっとも、私は自分から白旗を揚げることはできない。役人たちがあきらめるのを待つしかないのだ。
 拷問にも、時間の制限はあるはずだ。あと一時間か、二時間か。それを耐え忍べば、解放してもらえるのだ。
 私は頭の中で数を数えた。一、二、三、四……六十まで数えて止めた。
 今ので一分。これを六十回繰り返せば一時間。それだけ我慢すれば、今日の拷問は終わるかもしれない。
 再び、数を数え始めた。
 だが、
「うぅー、くぅーッ」
 こらえ切れぬ呻き声が唇から漏れ出てしまう。
 縄が食い込む痛みは、もはや耐えがたいものになっているのだ。
 早く、時間よ早く流れて!
 徐々に高まる苦痛の波に揉まれ、私はそれだけを念じていた。
 意識が飛びかけると、そのたびに笞で打たれて正気付かされた。
 それを何度繰り返しただろう。
 やがて、朦朧とした意識の下、誰かが私の身体に触れているのを感じた。
 役人でも下男でもない男だった。私の顔を上向きにさせ、瞳を覗き込んでいる。
「稲葉さま、これ以上の責めは命に関わるかと存じます」
 医師らしき男に注進された与力は、盛大なため息をついた。
「あいわかった。――しぶとい娘だ。今日はこれまでだ」
 釣り縄が緩められ、私の身体は白洲の上に乱暴に下ろされた。
 上体を縛めていた縄が解かれたが、私はピクリとも動くことができなかった。全身が痺れていて感覚が無い。とても自分の身体とは思えなかった。
「う……」
 声を出してみた。
 唇から出たかすかな音は、私がまだ死んではいないことを示していた。

    *

「真季、出ませいッ」
 数日の後、女牢に呼び出しが掛かった。
 今日も拷問に掛けられるのか。今度こそ死んでしまうかもしれない。そう思うと、悔しくていたたまれない気持ちになる。
 だがその日、私が引き立てられた先は、穿鑿所でも拷問蔵でもなかった。
 牢庭には竹で編まれた大きな籠が用意されていた。これは囚人を護送するための籠だろうか。私はどこへ連れて行かれるのだろう。
 まさか、処刑が決まって刑場へ?
 いたたまれなくなって、聞いてみる。
「あの、どこへ行くのですか?」
「火付盗賊改方、大河内様の役宅だ」
 今日殺されるというわけではなさそうだったが、なぜ火盗改役宅なのだろう。奉行所ではなくて?
 私は手鎖と足枷をはめられ、さらに竹筒でできた口枷を噛まされた。そして台板の上に座らされ、竹の籠をかぶせられた。
 籠は前後二人で担がれ、ものものしく私を護送する一行は伝馬町牢屋敷の門を出た。
 ――これが江戸の街か
 往来は埃っぽかった。道幅は十メートルくらいか。映画村などとは異なり、道はまっすぐに遠く遠くまで続いている。
 建物はモノトーンだったが、町人たちの着物は思っていたよりもカラフルだった。
 やがて大きな川にさしかかり、橋を渡った。おそらく隅田川の、両国橋だと思う。
 ざっと一時間ほど籠で揺られてたどり着いたのは、下町にある大きな屋敷だった。ここが火付盗賊改の役宅なのだろうか。

 門をくぐり、中庭で籠を降ろされた。
 私は口枷と足枷を外され、素足で屋敷の裏手へと引き立てられた。
 私が連れ込まれたのは、土間に玉砂利の敷かれた八畳ほどの部屋だった。床には、石抱きに使われる十露盤板、重石、そして鋭角の背を持った木馬、水をたたえた大きな桶が並べられていた。壁には竹笞や縄が掛かっている。ここは、火盗改役宅の私設拷問部屋だろう。
 私はムシロの上に座らされて待った。
 ほどなくして、畳敷きの小上がりに三人の侍が現れた。奉行所の与力や、牢屋敷の役人たちとは雰囲気が違う。この人は『武士』なのだと、私は直感した。
 親分とおぼしき人物を見上げた私は、峻烈な視線で睨み返され、恐怖のあまり目を背けた。名乗られるまでもなく、この人が火盗改の大河内なのだと悟った。
 手にした顛末書を険しい眼で読んでいた火盗改は、やがて威圧感のある声で話し始めた。
「ここには、牢屋敷で手を焼いた囚人が、度々送り込まれてくる。数多の拷問を耐え抜いた強情者も、ここでの責め問いに落ちなかった試しは無い。我等は、吐かせるために手段を選ばぬからな」
 なるほど。火盗改は拷問を請け負う専門家ということか。私がここに送り込まれたのはそういう理由だったのか。
「罪を認めて裁きを受けるか、責め苦に耐えきれず命を落とすか、二つに一つ、好きな方を選ぶがよい。無駄に苦しむのは得策ではないと思うがな」
 責め殺しても許されると、暗に言っている。
 そして、白状して拷問から逃れるという選択肢をもたない私は、苦悶の末に殺されるしかないのか。
「始めろ」
 私は手鎖を解かれて、囚衣を剥ぎ取られた。後手に縛られ、胸に縄を掛けられる。乳房の上と下、そして二の腕に縄が食い込む。
 さらに、両足首を括るように縄で縛られた。そこに梁から垂れている縄が結びつけられ、引き上げられてゆく。
 逆さに吊られるのだと理解した。
 足が、腰が、そして肩が浮き、最後に後頭部がムシロから離れた。
 身体が揺れる。縄を掛けられた足首が痛い。
 やがて縄が固定されたようだった。頭から地面まで一メートルくらいの高さだ。
 逆さまの景色。頭が重い。目がくらむ。
「真季、黒手組の隠れ家はどこだ。言え」
「存じません……わたくしは……」
 下男がうっそりと動いた。
 バシッ!
「がああッ!」
 剥き出しの尻に笞が当てられた。
 私は痛みに悶えて、啼いた。
 ゆるりと揺れる身体に、再び笞が打ち下ろされた。
 尻に、太股に、背中に、不規則に笞が飛んでくる。
 下男の怒号、笞が空を切り、肌を叩く音、そして私の悲鳴。
 それが止むことなく、繰り返される。
 積み重なる苦痛。笞は、一打ちごとに私の体力と精神力を削ぎ取ってゆく。
 啼き声も出なくなるほど責められた後、ようやく笞が止んだ。
 全身が熱を保ち、痛みを放っている。
 逆さに吊られて、血が集まった頭もひどく痛む。気持ち悪い。
「一味の居場所を言え、真季」
「しら……ない……」
 首を横に振る力も無く、わずかに頭が揺れただけであった。
 下男が動く気配がした。逆さまの姿の下男が私の前に立って、なにやら振り上げた。
 ビシッ!
 「きゃああッ!」
 乳房を打たれた。今までの竹笞ではない、もっと細い、よくしなるムチであった。
 再びムチ。
 両乳首を同時に叩かれ、私は奇声をあげた。とても自分が発した声とは思えなかった。
 下男の振るうムチは、執拗に私の乳房を狙い打った。
 これまでに受けてきた拷問とは異質の激痛に、私のこころは翻弄された。
 なんてことするの! これが江戸時代の公職のすることなの! こんなこと許されるの!
「いやぁぁぁ! いやぁぁぁ! ひいッ!」
 ムチが乳首に命中した時は、明確に声音が変わった。
 やがて乳房は真っ赤に腫れ上がり、傷ついた乳首から血が流れた。
 気が狂うと思った。
「やめてぇ! もぉやめてぇ!」
 とっさに私は叫んでいた。ムチが止まる。
「真季! 白状しろ、真季!」
 知っていることなら、何でも話すのに。本当に知らないのだから、どうしようもない。
 もういや。
「きゃあッ!」
 股間にムチが飛んできた。
 ピシッ! ピシッ!
 何度も何度も、ムチの先端で恥丘を敲かれ、私は涙をあふれさせて泣いた。
 ひどい……ひどすぎる……
「吐け! 真季!」
 ムチの柄が太股の間を割って、私の性器をまさぐっている。そして狙いを定めると、グッと乱暴に挿し入れられた。
「あああぁぁぁ……」
 硬くてざらついたムチの柄に、私は犯された。中を掻き回され、抜き取られ、また差し込まれ、私は処女を散らした。
 もういや……
 為すがままに蹂躙され、私は涙を流し続けた。

 ゴロゴロと音がする。水桶が引きずられている音だった。私の頭の下で、それは止まった。
 これから何をされるのか、考えるまでもなかった。
「せーのッ」
 吊り縄が緩められ、私の頭が水桶に浸かった。
 口を閉じる暇も与えられなかった。必死に息を止めが、肺の中の酸素はあまり残されておらず、長くは保たなかった。
 苦悶のあまり、縛られた手のひらが、無意味に閉じたり開いたりする。私は全身をよじらせて、酸素を求めた。
 ガボッと息を吐き出し、水を吸い込んだ刹那、身体を引き上げられた。
 激しく咳き込み、気管に入り込んだ水を吐き出した。そして、むさぼるように息をした。
 身体がゆるりと揺れる。縄が食い込む足首が痛い。頭がうっ血してつらい。
 またムチが飛んできた。
 尻を打たれた。続いて乳房を打たれた。二度、三度と交互に打たれた。
「あーーッ! あああッ!」
 ほどなくムチが止んだ。激しく喘ぐ私。
「そーれッ」
 吊り縄が緩められ、また頭を水に沈められた。
 息を止めて必死にこらえる。早く、引き上げて、早く……。
 酸素が尽きた。私は身体を折り曲げて、頭を水面の上に出そうともがいたが、叶うはずもなかった。
 すぐに限界が来て、空気を吐き出す。そして水を飲み込む。死ぬ。
 グホッ。
 ようやく身体を引き上げられた。竹笞の先で腹を小突かれ、私の口から水が吐き出された。激しくむせ込む。つらい、苦しい。
「真季! 吐け!」
 そして再びムチで打たれる。尻を、乳房を。
 ムチが止むと、頭を水桶に漬けられる。
 ――ころして、死なせて――
 私は、ただただ死を望んでいた。他にこの苦しみから逃れる術はないのだから。

    *

 ――数日後
 座敷牢から引き立てられた私は、再び拷問部屋に連行された。
 私はムシロの上に腹ばいにされ、背後で両手首、両足首に縄を巻かれた。手足四本が背中で一つにくくられ、身体が逆海老に反らされる。梁から垂れた縄が結ばれ、引き上げられてゆくのを感じた。
 これは駿河問いという拷問だろう。絵で見たことがあった。
 ムシロから腹が浮き、身体が揺れた。
「つ、うっ……」
 手首と足首、四ヶ所に体重が掛かり、ぐっと辛くなる。
 一番痛いのは、縄が食い込む手首。それから逆海老に反らされた腰。
 さらに一メートル半ほど吊り上げられる。ゆるりと視界が回った。
 下男が平たい石を手に取るのが見えた。それほど大きいものではない。せいぜい五キロといったところだろう。でも、その石、どうするの?
 重石は私の腰の上に乗せられ、胴に縛り付けられた。
「ああッ!」
 思わず悲声をあげていた。
 背骨が折れそう。腰がつらい。手首が痛い。
 心臓が鼓動を早め、どっと汗が噴き出してくるのを感じた。
 身体が激しく酸素を求めていたが、上体が反らされているため息をするのがつらい。
 下肢を小突かれ、身体がゆるりと回った。視界が横へ横へと流れてゆき、部屋の中を一巡する。下男が二人と、同心が二人。そして、火盗改の大河内。五人が私を取り囲んでいた。
 背骨が折れるほど痛い。本当に痛い。
 バシッ!
「あああッ!」
 笞で太股を打たれた。二度、三度。
 衝撃で身体がゆるりと回る。髪の毛を乱暴に掴まれて、回転が止まった。
 両膝が開かれ、無防備になっていた股間に笞が飛んできた。
「ぎゃあああッ!」
 激痛に身体が反応するが、自由に動かせる場所など無かった。全身の関節が悲鳴を上げていた。
 笞の柄が秘所をまさぐっている。そして、まったく潤いのない膣に強引に分け入ってくる。さらに中をグリグリと掻き回される。なんて酷いことをするのだろう。
 もう一人の下男に、乳首をつねられた。爪を立ててねじられ、乱暴に引っ張られた。
「吐け、吐いて楽になれ。一味の隠れ家はどこだ!」
「しらない……本当にしらない……」
 声にならない声で、私はつぶやいた。
 火盗改がうなずき、鋭い声が上がった。
「回せッ」
 下男たちが私の身体に手を掛けた。
 時計回りに回されてゆく。五回転、十回転、二十回転。
 ひたすらに、縄に捻りが掛けられてゆく。
 これから何が起きるのか悟って、私は恐怖に震えた。
 ついに下男の手が止まった。そして勢いを付けて、反時計回りにぶん回される。
 束ねられた両手首、両足首、そして背中の重石を中心に、勢いよく身体が回り始めた。
 部屋の光景が、飛ぶように横に流れてゆく。速度を増しながら。
「ぐ、あ……ぁ……ぁ」
 視界の隅で、髪が舞い踊っている。
 私は、悲鳴をあげることさえ許されなかった。
 猛烈な吐き気。視界が赤く染まる。身体が砕ける。
 遠心力で頭に血が上った。
 これ、死ぬかも知れない。
 回転が緩やかになり、ようやく静止した時、私はもう半分気を失っていた。
「ひいッ、ひいッ、ひいッ……」
 半ば視力を失った眼から涙が、鼻からは血が、口から吐瀉物が流れ出ていた。
 そして私の身体は、逆向きに回り始める。今度は視界が左へと流れてゆく。

 次に意識を取り戻した時、私の身体は白洲の上に降ろされていた。
 腰や手首の痛みは和らいでいるものの、猛烈な頭痛がする。
 私は力なく嘔吐いたが、もう胃には何も残っていないようだった。
「一味の居場所を言え、真季」
 もはや、反応する力など無い。首を縦に振ることすらできないだろう。
「吐かねば、もう一度吊り上げて回すぞ」
 ……やめて、もう、いや、死なせて
 声にならない。唇を動かすことすら難しい。
 私の身体が、再び宙に浮いた。
 手首に縄が食い込み、身体中の関節が悲鳴を上げる。
 吊り縄が固定されると、細いムチがうなりを上げて飛んできた。
 乳房を打たれた。思いっきり。下男は、下からすくい上げるようにムチを振るった。
「ぎャ、あぁ……ッ!」
 息が詰まる。声が出ない。頭を振り乱して悶える私。
 揺れる身体の、あらゆる部位にムチが飛んだ。下腹、太股、尻。全身を滅多打ちにされた。
 私は口から泡を噴いて悶絶した。
「吐け! 真季! 吐け!」
 耳元に怒声が響き、少しだけ意識が戻った。
 むり……もうむり、死なせて
 私は、屈服の意思表示をすることすらできなくなっていた。
「回せッ」
 吊り縄に捻りが掛けられ、やがてぶん回される。
 今度は長く苦しむことなく、私は短時間で気絶した。

    *

 その日も私は拷問部屋へ引き立てられ、代わりばえのない糾問を受けていた。
「真季。黒手組一味の居場所を言え」
「……わたくしは、黒手組などではございません。石を抱かされて、無理矢理白状させられたのです。黒手組と関係が無い以上、隠れ家など知るはずもございません。いくら責められても、お答えできません」
「おのれ、まだそのようなことを申すか!」
「確かに私は真季という名前ですが、加賀屋の奉公人であった覚えはございません。そもそもわたくしは……」
 ――この時代の者ではございません
 そう言おうとしたが、唇が止まった。
「なんだ。申してみよ」
「お聞かせしても詮なきことでございましょう」
 小馬鹿にされたと感じたのだろう。火盗改の表情が、たちまち変貌してゆくのがわかる。同心や下男たちまで色めき立ち、部屋の空気が変わった。
「今日という今日は、必ず泥を吐かせてみせようぞ。覚悟するがよい」

 梁から垂れ下がった縄が、後ろ手に縛られている私の背中に繋がれた。掛け声と共に縄が引かれ、私の身体が釣り上げられてゆく。爪先が地面を離れ、胸と二の腕に掛けられた縄が身体に食い込んでくる。伝馬町牢屋敷の拷問蔵で受けた釣り責めと同じだ。
 かなり高いところまで釣り上げられて、縄が固定された。
 下男たちが木馬を持ち上げ、運んでくるのが見えた。木馬は私の真下に置かれた。鋭く尖った稜線に目を見張る。
 釣り縄が緩められた。木馬の背が徐々に迫ってくる。
 いやだ、こんなものに跨がらされるのは!
 私は身体に食い込む縄の痛みを覚悟の上で、両足をバタつかせて抵抗した。木馬を蹴り倒してやるつもりで暴れた。
「おとなしくしろッ!」
 同心たちが私の足を捉えた。二人に片足ずつ抱え込まれ、股を開かされた。
「やめてッ! やめてぇ!」
 下男たちが再び縄を緩め、私の身体を降ろしてゆく。完全に木馬を跨がらされる体勢になっていた。
 やがて、私の股間が木馬の背に触れた。釣り縄はさらに緩められ、体重すべてを秘所で支えることになった。
 鋭く尖った木馬の頂が、股間の柔肉に食い込んだ。
「あッ、ああっ!」
 私はさらに暴れた。両足を突っ張って、股間の荷重を減らそうと試みた。
 だがそれも無為な抵抗であった。
 足下では、下男たちが両足首に縄を掛けている。一抱えもある重石が用意され、足首から吊された。
「んああッ! ぐうッ! つぅ……」
 引き伸ばされた両足は自由を失い、私はついに観念した。
 重石によって、股間への食い込みはより深いものになった。
 苦痛は甚だしかったが、石抱きよりはマシだと思った。でも、オンナの部分を責められているという異常な状況に心を乱された。
 息が荒くなる。呼吸で胸が上下するだけで、股間の痛みが増してくる。
 とにかく身体を揺らしてはいけない。すぐにそれを悟った。
 胸元から立ち上る湯気が、頬を熱くする。全身から滲み出した汗が、浅葱色の囚衣を色濃く染めてゆく。
 涙がこぼれた。私は目をつぶってじっと耐えていた。
「真季、この責めは女子の身にはつらかろう。有り体に申せ。黒手組はどこに居る」
「咎無き者に対する非道な責め、あんまりでございます」
 私は目を開け、力なく哀訴した。
 火盗改は、喉を鳴らして嘲笑した。
「おもしろい娘よのう。今日は考える時間をたっぷりと与えてやるとしよう」
 二人の下男を残して、火盗改と二人の同心は出ていった。
 そして、残された私の、長い戦いが始まった。

 ゴーンという音が聞こえてきた。朦朧としていた意識が、少しだけはっきりする。
 あれは、時の鐘か。そういえば、この責めが始まってすぐの時にも、鐘の音を聞いた気がする。ということは、もう二時間も経っているのか。
「ううーッ」
 また下半身が痙攣する。じっとしていたいのに、筋肉が勝手に戦慄くのだ。そのたびに股間の痛みが高まり、涙がこぼれる。
 足首に吊された重石が揺れた。
 腰回りは痺れて感覚がなくなっていた。しかし股間の痛みだけは止むことがなく、私を苦しめ続けている。
 汗にまみれた頬を左肩にゆだねて、私は耐え続けていた。
 ――火盗改が、二人の同心を連れて戻ってきた。
 詮なきことと思いながらも、私は哀訴せずにはいられなかった。
「おろして……おろして、ください」
「話す気になったか、真季」
「しらない……ゆるして……たすけて……」
 私が折れないとみるや、火盗改は下男に指示を出した。
「おいッ」
 下男は私の背後に回り、私の腰を掴んだ。そして、
「ああああッ!」
 腰を前後に揺さぶられたのだ。鋭く尖った木馬の背に、股間の柔肉が強くこすりつけられる。たちまち性器から血がにじみ出した。
「うぉおおおッ! うぉおおおッ!」
 信じがたい激痛に襲われ、私はかん高く吼えていた。
 さらに腰を左右にひねられ、敏感な部分がゴリゴリとすり潰される。
「やめてぇ! もぉやめてぇ!」
 だが下男は手を止めることなく、私の身体を揺さぶり続けた。
 私はうなじで束ねられた髪の毛を振り乱し、声の限りに泣き叫び続けた。
「白状するまで揺さぶってやれ!」
 そんなの、むり、ゆるして、たすけて
 二時間を超える木馬責めの末、ついに私は意識を手放した。

 どれだけ気を失っていたのだろう。木馬から降ろされた私は、ムシロの上に横たえられていた。囚衣は脱がされて、全裸である。
 下肢にはほとんど感覚がなく、長く縛られていた上肢も硬直していた。そして、秘部はズキンズキンと痛みを訴えていた。
 身体を引き起こされて、柄杓の水をあてがわれた。私はむさぼるようにしてそれを飲んだ。
「十分に休めたであろう。一味の居場所について思い出したか?」
「もういや……ゆるして……」
 私は嗚咽を漏らして哀訴した。聞き入れられるわけなどないとわかっていても、そうするしかなかったのだ。
「乗せろ」
 私は再び後手に縛り上げられ、縄で吊り上げられた。
 一度目のように抵抗する力もなく、私は為すがままに木馬に跨がらされた。
 そしてまた、両足に重石を吊り下げられた
 裂傷を負っている股間に、木馬の背が再び食い込んできた。
 下男が、私の胸に掛けられた縄を掴み、思い切り前に引っ張った。
 上体が前屈させられ、クリトリスが押し潰される。全体重に足の重石をくわえた力が、脆い部分に掛かっているのだ。意識が遠くなるほどの激痛であった。
 さらに
「ぎゃあああッ!」
 激しい打擲音が響き、尻に衝撃があった。竹笞が当てられたのだ。
 下男は怒声をあげ、渾身の力を込めて笞を振るった。打たれる尻の痛みだけではない。陰部に伝わる衝撃によって、さらに苦しめられるのだ。
 私は、わけのわからない言葉でわめき続けた。
 やがて、胸縄を掴んでいた下男が手を離した。そして、細いムチを持つと、やにわに私の胸に叩きつけた。
「きゃああッ!」
 乳首を痛撃されて、頭の中で何かがはじけた。
「吐け! 真季!」
 尻を打たれる。胸を打たれる。尻を打たれる。胸を打たれる。
 そしてまた、腰を掴まれて揺さぶられる。まさに地獄のような責めが繰り返された。

 やがて、私の身体は縄で吊り上げられた。
 木馬の背から、五センチほど股間が浮いた。上体を縛めている縄に体重が掛かり、股間の苦痛がやわらいだ。
 だが、次の瞬間
「ぐおぉぉぉぉぉぉぉッ!」
 身体を吊す縄が緩められ、私の股間は木馬の背に叩きつけられていた。
 意識が飛ぶほどの激痛であったが、楽になることは許されなかった。
 再び、身体が吊り上げられる。
「黒手組はどこだ!」
「もういや! もういや!」
 私は狂ったように身をよじらせた。
 木馬の上に身体が落とされた。
「うおぉぉぉぉッ!」
 衝撃で、足首に吊り下げられた重石が振り子のように揺れた。
 股間の傷が広がり、流れ出た血が内股をじっとりと湿らせた。
「吐け! 真季! 黒手組はどこにいる!」
 火盗改の命令で、両足首に重石が追加された。股関節が悲鳴を上げ、木馬の背は限界まで私の陰部に食い込んだ。
 再びムチが飛んでくる。尻に、乳房に、尻に、乳房に。
 ムチが止むと、また腰を掴まれ、前後に揺さぶられ、左右にひねられる。
 激しさを増すムチ打ちと、身体の揺さぶりは延々と繰り返され、意識が薄れると水を顔に掛けられた。
 尻も乳房も真っ赤に腫れ上がり、血を滲ませていた。
 血と尿が混じったものが足を伝わり、爪先からしたたり落ちていった。
 もういや! 殺して! 死なせて!
「真季! 吐け!」
 もう二度と意識が戻らなくていいから楽になりたいと、私は願った。
 ついに口から泡を吹き出した私は、木馬の上で悶絶した。
 水を掛けられても、打ち叩かれても、私の意識は戻らなかった。

    *

 私への拷問は、それきりおこなわれることはなかった。
 黒手組の隠れ家が見つかったのだ。火盗改の強襲による壮絶な捕り物の末、一味は全員討ち死にしたとのことだった。
 私が拷問される理由は消え失せたのだ。
 そして黒手組が壊滅したことによって、私が事件に無関係であることを証明する手立てはなくなった。
 私は、強盗の手引きをした罪人として処刑されることが決まった。
 磔の上、獄門である。

 私は後手に縛られたまま、裸馬に乗せられた。思っていたよりもずっと視点が高い。身体は背もたれのようなものにくくりつけられているので、落馬することはない。
 木馬責めで散々痛めつけられた股間の傷が疼いた。馬が動き始めるとさらに刺激が強まり、泣くほどつらかった。
 江戸の街に出たのは二度目だった。前回は囚人籠に入れられていたので、よく見ることができなかったが、今日は馬上にいる。とても見晴らしが良い。
 テーマパークや映画のセットではない、本当の風景。時代劇のように美化されていない、リアルな町並み、風俗。史料からは決して感じることのできない、匂いや音。
 歴史ファンとしては、夢のような体験だった。これが刑場への道中でさえなければと思うと、残念でならない。
 江戸には刑場が二ヶ所あることは知っていた。鈴ヶ森と小塚原である。どうやら私は、鈴ヶ森に向かっているようだった。
 幟と捨て札を持った人を先頭に、槍を持った人が二人続く。そして私の馬。私の後ろにはぞろぞろと役人たちが連なっている。
 私は、周囲の注目を一身に浴びていた。これほど他人の視線を集めたのは、生まれて初めてのことだった。
 見て見ぬふりをする人など居なかった。そして、ひそひそと交わされる噂話。
 東海道をくだり、やがて海が開けてきた。帆船が何艘も浮かんでいるのが見える。思っていたよりもずっと大きな船もあった。
 一行は品川宿に入った。
 食事を摂るかと尋ねられたので、所望することにした。食欲はまったく無かったが、腹の音がうるさかったのだ。
 私は馬から降ろされたが、縄は解いてもらえなかった。後手に縛られたまま、蕎麦を食べた。介添え人が箸で持ち上げた蕎麦を、音を立てて啜る。どんぶりを傾けてもらい、汁を飲む。
 涙が出た。止まらない。
 声をあげて、私はむせび泣いた。
 やがて、馬に乗るようにうながされた。

 品川を出ると、鈴ヶ森まではもう遠い距離ではなかった。残された時間は多くない。
 街道沿いは風光明媚な景色だったが、何の感慨も持てなかった。
 遠くに、竹の柵で囲われた一画が見えてくる。おそらくあそこが終着点だろう。
 一行は粛々と囲いの中に入ってゆく。
 刑場では、人足たちの手によって準備が進められていた。
 私は馬から降ろされ、ようやく上体の縄を解かれた。痺れた腕をさする間もなく、囚衣の両脇を小刀で裂かれた。拷問で痛めつけられた乳房から脇腹にかけてむき出しになった。これは、槍で突きやすくするためだろうか。徐々に、処刑というものがリアルに感じられるようになる。
 地面には、白木の十字架が横たえられていた。
 そこに仰向けになるよううながされ、私は寝そべった。
 足首と、膝と、腰を、磔柱に縛り付けられる。両手は横木に沿って広げられ、手首と肘を縛られた。
 そして大勢の人足たちが呼び集められ、磔柱をかつぎ上げた。
 穴の空いた大きな石に柱の根本があてがわれ、地中に差し込まれてゆく。しかして磔柱は直立し、私は高々と晒された。海からの風に、髪がたなびいた。

「元数寄屋町加賀屋奉公人、真季。十八歳。相違ないな」
 役人に問われる。私は否定する。
「いいえ。私は七瀬真季。星光学院高校三年生です!」
 それは、精一杯の私の矜持だった。
 役人たちは何やら話し合っていたが、この場を取り仕切っている与力が判断を下したようだった。
 長い槍を携えた二人の処刑人が、私の両脇に立った。
 私の人生、これで終わり?
 わけの分からないまま江戸時代に飛ばされて、盗賊の一味などと疑われて、散々拷問された挙げ句、磔獄門? 一体なんなの?
 ――理不尽
 嘘だよね。このまま処刑されれば、現代へ帰れるんだよね。夢から覚めるんだよね。
 そうだよね?
 こんな死に方、あり得ないよね?
 目の前で二本の槍が交差した。
 ドラマならば、ここで味方が助けにやってくるところだ。無実の証拠を携えた早馬が駆け込んできて、処刑中止になるのだ。
 早く、早く来て。
「アリャー! アリャー!」
 処刑人たちの奇妙な掛け声が耳を打った。
 右脇腹に槍先が突き刺さり、内臓を貫いた。
 拷問とは別次元の激痛であった。このまま死ぬのだということを一瞬にして悟った。
 槍が引き抜かれ、私の身体から凄まじい勢いで血が噴き出す。
 今度は左側から突かれる。上体を斜め上に貫いた槍先が肩から飛び出した。
 また右から。そして左から。
 ――どうして私は、こんな目に
 絶命する寸前、悲しみと恐怖は失われ、ただ怨嗟だけが残った。
 ――理不尽

    *

 視界が真っ赤に染まった。
 一瞬身体の感覚がすべて失われ、無重力状態に陥った。
 縛められていた四肢は自由になり、痛みも消え去っていた。
 そして、嗅覚、聴覚、視覚が徐々に戻ってきた。
 ここは、どこだろう?
 蝉の鳴き声。車の騒音。線香の香り。汗ばむ肌。木陰。雑然とした緑地。奇妙な形をした石。焼香台。仏花。石碑。
 そして、目の前に立つ金属製の碑文には
 ――磔台
 私はすぐに理解した。ここは鈴ヶ森の刑場跡だ。
 足元にある穴の開いた大きな石は、磔柱を差し込んで立たせるためのものだ。
 私は先刻、ここで処刑されたのだ。
 戻ってきたのか、現代へ。これは、夢から覚めたのか?
 遠い昔を思い出すように、私は記憶を辿った。
 確か私は、小伝馬町の牢屋敷跡に居たはず。それがどうして?
 まさかと思って、スマートホンを取り出して日付を確認する。日にちは、飛んでいなかった。年も同じだ。時間は進んでいない。
 夢か。
 何ヶ月もの間、ひたすら拷問され続け、最後に処刑される悪夢を見ていたのか。
 でも、いったい伝馬町牢屋敷から鈴ヶ森刑場まで、どうやって移動してきたのだろう? 全然記憶に無いのだけれども、夢遊病みたいなもの?
 なんにせよ、江戸時代にタイムワープしてまた戻ってきたなどという、荒唐無稽な空想をするよりは、夢として片付けてしまったほうがいい。
 いま私はこちらの世界の制服を着ている。それに、拷問で痛めつけられた身体の痛みも残っていない。
「夢オチか、結局」
 大きなため息をついた。
「おつかれさま」
「ひゃあッ!」
 後ろから声を掛けられて、私は文字通り飛び上がった。
 振り返れば、見覚えのある女性が居た。伝馬町牢屋敷跡を案内してくれた人だ。
「なかなか刺激的な体験だったでしょう」
 どうして、それを?
 あなた、いったい何者?
 聞きたいことはたっぷりあるのに、言葉にならない。私は口をパクパクさせて、女性の顔を凝視した。
 彼女は私の視線を受け流し、遠くを望むような横顔を見せた。
「そうね……冤罪で拷問されて、処刑された人の怨念が、あなたを呼び寄せたのでしょう、きっと」
「そんな、ばかな……」
「とても信じられないでしょうね。でも――」
 女性はそう前置きして、話を続けた。
「一つ教えてあげる。あなたを取り調べた火盗改の大河内、あれはあなたの御先祖様なの。御先祖様に可愛がってもらった感想はどう?」
 血の気が引いてゆく。火盗改の鬼の形相が脳裏に浮かぶ。怒号とムチの音、身体中の痛みが蘇ってくるような気がした。
「大河内は、無実の者を何人も責め殺していましたから。その人たちの怨念が、子孫のあなたに意趣返しをしたとしても、不思議ではありませんね」
「そんな、ばかな……」
 私は、再度つぶやいた。
 女性がこちらを見た。かすかに笑ったかのようだった。
「これからは、あまり刑場とかに近付かないほうがいいですよ。あなたは、取り憑かれやすい体質だから」
 私は、そういうオカルトな話はあまり好きではない。しかしその助言は、身震いするほどの説得力を持っていた。
「帰り道わかる? 家までまっすぐ帰るのよ。寄り道しないで、迷わず、まっすぐね」
 そう言い残して、女性の姿は私の前から忽然と消えた。
「うそ……」
 まだ夢の続きを見ているのではないかと、私は不安になった。

 私はスマートホンで地図を調べ、帰路についた。
 言われた通り、まっすぐに家に向かい、自室に戻り、布団に突っ伏した。
 目を閉じると、果てしない疲労感と睡魔に襲われ、私はたちまち眠りについた。
 夢の中の私は、江戸時代の女牢に捕らわれた女囚だった。


(c) 2020 信乃


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